今の時代に期待は止めよう。今は正に第二次大迫害時代、新しい民主独裁社会

皆さん、こんばんは。

 

                    今年ももう終わりですね。今年も色々ありました。そして、理解不能なバッシングも、沢山ありましたね…。       

 

 今の非寛容という時代で人々がうんざりしているのは、私含め多くの人が同じだと思います。

 

 

 

そこで私が最近思った事は、そう不満を持っている我々は生まれてくる時代が、数百年ばかし早かったタイプかもしれないという事です。 

 

ネットのバッシングのおかげで、どれだけの物.行為が悪者になった事でしょう。それが明らかに悪くないのに一部の人々によって排斥されてしまいます。

 

しかし、それにうんざりしている人々はどこか、今我々がいる時代は、そんな妙なルールで悪者にされずにコンテンツを楽しめるのは 当然の事だと、どこか思っています。 私はそれは間違った事ではないと思います。だって、このレベルの事が何回続くんですか。それで悪者にされた多くの事柄は、今の日本の法律を犯していないものばかりです。   

 

 

それでこんなに悪くなるって、政治家が極端に仕事をしてないか、悪くないものが悪くさせられている正義の問題があるかのどちらかだと思うのです。 

 

 

我々がそれらの行為によって不当に悪にさせられたくないし、それが可笑しいと考えるのは当然の事だと思います。しかし、今はその行為が兎に角問題にならないのです。何も悪い事をしてないのに、執拗に叩かれ、些細な事でも丸で大罪を犯したかの様にこっぴどくsjwの活動で攻撃を受けます。

 

そんな苦痛を与えまくる人が、力を持ったそんな独裁社会の世界の中にどう考えてもいるのです。そして、それらの攻撃を恐れ、誰も彼らに逆らえない状況がある、これを言い換えると、彼らの独裁社会が成立していると言える状況と言っても良いと思います。  

 

この現象は現代の状況では起きる訳がないと思ってしまいますが、起きても可笑しくないと思うのです。何故なら、今の民主主義社会の前は似た様な状況で、今の社会はそこから構図が、変わっただけです。そうなると、民衆の一部の中の人々が強い攻撃性で力を持ち、制圧してしまうという状況になって、独裁下と似た事になるというのは平然と起きうる事態なのです。それが為政者から強い攻撃性を持った市民に変わっただけなのです。 

 

我々はそういう不運な時代に生きているのです。中世の魔女狩りの時代に生き、迫害された人を私たちは、この時代に生まれて気の毒だなと思うでしょう。今、私たちは似た様な時代にいるのです。 

 

 

クレーマーによってつまらなくなったテレビ 、やたら差別だと言われ迫害を受けるコンテンツ、見れなくて当然です。何故なら、今はそういった事で様々なバッシングの論法で、悪にされる人民裁判が横行している、21世紀型の魔女狩り、第二次大迫害社会に既にいるのです。

   

 

それを見たいなら、カポエラーの様に バレない様に、分からない様に、こそこそコンテンツを出して、ひっそりと楽しむしかない社会なのです。

 

 

モラルだけ作らず、自由への整合性という要点を作るべき

 

 

 近年の非寛容なネットバッシングには、もううんざりする毎日です。

 

これらについて、私が思うのは、これらがモラルの理屈しか持ち合わせていないという問題点があると思います。

 

法律で考えたら分りやすいですが、法律は規制する内容だけを考えている訳ではありません。憲法で保証された自由という要件も考えなければならないわけです。

 

法律が過剰になりにくい理由として、この自由という相手に譲渡する機能が上手く働いている事があるのではないでしょうか。

 

対してネットや一般人の正義には明らかにこの発想がありません。ネットでは相手が何らかの理由で悪い理屈がどんどん考えられていますが、その理屈と相手の自由との整合性についての要点を考えてる人は私は見たことがありません。

 

この事柄から導かれることは、少しでも問題かもしれない、悪影響かもしれない、こう取れば悪い解釈になるという理屈が一ミリでも出来れば、排除という行動です。

 

 

なので何かしら悪くなる理屈が出来れば、排除して良いというゴーサインが出されるんだと思います。これは叩く側もそうですし、叩かれる側の判断基準にもこの観点はありません。

 

ネットの正義や、クレーマーが過剰になってしまう理由にはこのモラルを止める機能が存在していないという点が一つあると思います。

 

なので、相手の自由との整合性についてネットで正義やモラルを振るう人は考えるべき

と思います。

 

例えば、これはこう取れば悪く解釈できるけど、それで相手は果たして自由を奪われなければならないのかという視点です。この判断を持つと、ある理屈では悪いとも取れるけど、これで排除は出来ないなーとかという10か0かではない考えになっていきます。

 

しかし、この観点を持ってしまうと、自分が気にくわない、排除したいものが排除出来にくくなる事になります。

 

私はネットを考えて、意見は唯の排除したいだけの手段でしかなく、感情的な根源の排除衝動があると思っています。こういった人達にはか細い理屈でも排除したくてたまらない訳です。

 

そういった人はその観点も持ちたくないのは間違いないでしょう。しかし、人々がモラルを判断する理由として、モラルと自由の整合性という視点は重要と思います。

 

※この場合のモラルは正義というだけの理由のルールであり、社会には同意や契約、対価によって課されるルールがあり、そのルールはこの基準には含みません。