モラルだけ作らず、自由への整合性という要点を作るべき

 

 

 近年の非寛容なネットバッシングには、もううんざりする毎日です。

 

これらについて、私が思うのは、これらがモラルの理屈しか持ち合わせていないという問題点があると思います。

 

法律で考えたら分りやすいですが、法律は規制する内容だけを考えている訳ではありません。憲法で保証された自由という要件も考えなければならないわけです。

 

法律が過剰になりにくい理由として、この自由という相手に譲渡する機能が上手く働いている事があるのではないでしょうか。

 

対してネットや一般人の正義には明らかにこの発想がありません。ネットでは相手が何らかの理由で悪い理屈がどんどん考えられていますが、その理屈と相手の自由との整合性についての要点を考えてる人は私は見たことがありません。

 

この事柄から導かれることは、少しでも問題かもしれない、悪影響かもしれない、こう取れば悪い解釈になるという理屈が一ミリでも出来れば、排除という行動です。

 

 

なので何かしら悪くなる理屈が出来れば、排除して良いというゴーサインが出されるんだと思います。これは叩く側もそうですし、叩かれる側の判断基準にもこの観点はありません。

 

ネットの正義や、クレーマーが過剰になってしまう理由にはこのモラルを止める機能が存在していないという点が一つあると思います。

 

なので、相手の自由との整合性についてネットで正義やモラルを振るう人は考えるべき

と思います。

 

例えば、これはこう取れば悪く解釈できるけど、それで相手は果たして自由を奪われなければならないのかという視点です。この判断を持つと、ある理屈では悪いとも取れるけど、これで排除は出来ないなーとかという10か0かではない考えになっていきます。

 

しかし、この観点を持ってしまうと、自分が気にくわない、排除したいものが排除出来にくくなる事になります。

 

私はネットを考えて、意見は唯の排除したいだけの手段でしかなく、感情的な根源の排除衝動があると思っています。こういった人達にはか細い理屈でも排除したくてたまらない訳です。

 

そういった人はその観点も持ちたくないのは間違いないでしょう。しかし、人々がモラルを判断する理由として、モラルと自由の整合性という視点は重要と思います。

 

※この場合のモラルは正義というだけの理由のルールであり、社会には同意や契約、対価によって課されるルールがあり、そのルールはこの基準には含みません。